「個人の自由」と「集団の確率分布」のジレンマ

ソーシャルディスタンスイラスト自由

自由をめぐる問題のほとんどは「個人の自由」と「期待される集団の確率分布」のジレンマなのだと思うのです。

 

個々のケースで見ると自由を認めざるをえない行動も、そうした個々のケースが多数集まった「集団としての振る舞い」がみなの期待を裏切っている時があります。

これが各所でのトラブルのもとになってるのではないでしょうか。

 

「自粛警察」も「奔放な外出・外食」も許せない私たちのジレンマ

ジレンマの好例はこのコロナ禍でも見られます。

 

たとえば、緊急事態宣言下でもあくまで個人の外出は禁止ではありません。もっと言えば外食さえも別に禁止ではありません。個人の自由です。

ここで「自粛警察」みたいなのがやってきて、誰かを暴力で脅したり、拘束したりすれば、「自由の侵害」としてむしろ「自粛警察」の方に非があるとみなされます。

しかし、同時に私たちは、外出したり外食したりとその自由を積極的に行使する者が「多いこと」にも怒りを感じます。

 

個々の自由は認めるけれども、それが多いのも許せない。

まさにジレンマです。

 

個人の自由を認めつつ、集団の振る舞いの制御も必要

つまるところ、私たちは、個人の自由を認めつつも集団としての振る舞いも制御しなくてはならないわけです。

実際、集団としての振る舞いが、ある程度期待の範囲内に落ち着くように私たちは日々介入を行っています。

しかし、その介入がしばしば強すぎたり弱すぎたりして、個人の自由が失われたり、あるいは集団が暴走して、私たちは悩んでいるのです。

 

 

「集団の振る舞い」の確率分布的イメージ

この話は図示した方が分かりやすいと思うので、珍しく夜なべしてシェーマを用意してみました。

(図1)ベルカーブ状の確率分布グラフ

あくまで意味を掴んでもらうためのイメージなので、厳密なグラフではないです。

横軸が積極性を示していて、右に行くほど積極的に活動していることを指します。なお、積極的に「動くこと」も、消極的に「動かないこと」もどちらも「自由」なので、必ずしも右ほど「自由」というわけではないので注意してください。

縦軸は頻度(確率)です。上に行くほどその積極性の個人の頻度(確率)が高いことを示します。

個人が各自思い思いに活動した結果、このような確率分布のカーブが「集団の振る舞い」として表れてくるイメージです。

 

で、一番分かりやすいパターンと思うのが、このベルカーブ状の分布です。ほどほどに活動しつつ、大人しくもしている、そんな中間的ないわば「普通」の人が多くて、とても活発な人や、とても大人しい人は少ない、そういう分布です。

たとえ個々人を自由に活動させたとしても、結果として常識的な範囲から大きく逸脱する人はいないこの分布をなんとなく私たちはイメージすることは多いのではないでしょうか。

 

もちろん、ここまできれいに左右対称でなくてもいいですし、山がもっと左寄りでも右寄りでもかまいません。ただのイメージですし、それに対象とする行為や、集団によっても変化するでしょう。

それがどういう形であるにせよ、私たちは自然と、こうした「何らかの集団のイメージ」を期待しているように思うのです。

 

 

期待を裏切る「集団の暴走」

しかし、現実の集団としての振る舞いは、時にこうした私たちの期待する「集団のイメージ」を裏切ります。

たとえば、何か大衆に人気の品物やアクティビティがあれば、それに人気が殺到して、急に右端の「積極的な」人々が急増することがあります。

(図2)右端の「積極的」に人々が集中する確率分布グラフ

往々にして、この人気殺到を予想していなかったり、予想していてもどうにもリソース不足で準備が及ばなかったために、現場がパンクしトラブルになることがあります。

行列ができるラーメン店で近隣住民に迷惑がかかったり、期間限定品を買い占める転売屋が闊歩したり、予約の電話がまるでつながらなくなったりするのがコレです。

あるあるですよね。

 

なお、図示はしませんが、この「人気殺到」とは逆のパターンもありえます。多くの人が自ら進んで行ってくれるだろうと思ったことがまるで行われないパターンですね。この場合は、左端に人々が寄ることになります。

 

 

「集団の振る舞い」を制御する2つのやり方

さて、このように自然な個人の自由に任せた結果、集団としての振る舞いが期待にそぐわなかった時。トラブルが多発し、何とかしないといけないとしたら、どう制御するか。

 

ここでよく持ち出されるのが、ルールによる規制や、マナーあるいはインセンティブの提示による行動変容です。

 

順に見てみましょう。

 

ルールによる行動の規制

(図3)規制により山の右側が崩れた分布のグラフ

ルールは、「個人に許されるのはここまで」と、明確な線引きをして、それ以上の個人の行動の自由の行使を禁止します。

「トイレットペーパーのお買い上げはお一人様2個まで」などとルール化するのがその代表例です(もちろん、ズルをして3個以上ゲットする者は絶対残るでしょうが)。

確率分布のカーブをこのように力づくで矯正して、期待の「集団のイメージ」に寄せることができます。

 

マナー・インセンティブによる行動変容の促進

 

(図4)マナー・インセンティブにより山が左方移動しているグラフ

一方のマナーやインセンティブは、明確な線引きはしないまでも、「山」の移動を促す効果を持ちます。

 

たとえば「多くの方にご利用いただけるよう譲り合ってご使用ください」とマナーとして語りかけたり、「外出すると感染リスクがあるよ」と不利益(消極的になる方向のインセンティブ)を示したりするのがそうです。

心理的、実利的にみなが活動を控える傾向が出ることで、山が左に移動します。

 

もちろん、まったく逆も可能です。推進したいことについてはインセンティブを与えたり、名誉を付与して促したりします。

 

なお、ルールも罰則が弱いとマナーに近づきますし、マナーも半強制的な空気が強いとルールに近づくので、ほんというと集団の確率分布を変える効果における両者の明確な区別はありません。

 

 

自由主義社会は「マナー・インセンティブ型」を好む

さて、現代の自由主義社会は、自由を尊重する価値観から、ルールによる規制やパターナリスティックなマナーによる半強制を用いて自由な集団の確率分布のカーブを力づくで曲げるのは好ましくないとする立場です。

できるだけ緩やかなマナーやインセンティブの提示で、「集団としての振る舞い」を制御するようにしてきたと言えます。

 

今回は大きくは取り上げませんでしたが、もはやマナーやインセンティブにも頼らず、認知的デザインだけで行動変容を促す「ナッジ」なんて、いかに介入を緩くするかにこだわる自由主義社会の象徴と言えるでしょう。

ナッジ(行動経済学)とは・意味 | 世界のソーシャルグッドなアイデアマガジン | IDEAS FOR GOOD
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「ルール型」が増えてきた?

ただ、それでも十分に期待される集団分布にならなかった時、もしくは重大な問題だからと最初からルールや半強制マナーによる正義が掲げられることが最近増えてきたように思うのです。

コロナ禍の「自粛警察」、「ポリコレ棍棒」などはその典型でしょう。

 

もちろん、確かに扱ってるテーマやその帰結が重大で、矯正で目指しているカーブが理想なのかもしれません。その目標の是非を問題にはしません。

 

 

私たちは繊細な「砂のお城」をどう動かすのか

問いたいのは「やり方」です。

 

「マナー・インセンティブ型」を基本とした「集団の振る舞い」の制御方法が変質し、自由主義社会にありながらある程度の「山の形」を維持しその中で人々を泳がせるということができなくなっている感があります。

言うなれば、そこかしこに「ルール型」に見られるような「崖」が目立っているように感じるのです。

 

この「やり方」の傾向を見ていて、自由を愛する者の一人としては寂しい気持ちがあるのです。

 

いわば、頑張って築いた砂のお城が大波で半分崩されるような、そんな寂しさが。

 

できれば、もう少し粘って、そっとお城を移動させることはできないものでしょうか。

難しいのはもちろんそうだと思います。

でも、昨今のみなが怒りっぽい世の中を見ていると、「それにしたってあっさりとお城を崩しすぎでは」と、思わないではいられないのです。

 

 

 

以上です。ご清読ありがとうございました。

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