SNSでもテレビでも「~すべき」という意見が日々飛び交っています。
とくに今のコロナ禍では、「ワクチン義務化をするべき/しないべき」とか、「自粛すべき/しないべき」とか、「五輪開催すべき/しないべき」とか、様々な「べき」論争が紛糾しています。
各々が考えて意見を言うのはもちろん大事なことです。
しかし、一見して「それはちょっとどうなの」と感じる残念な意見も少なくありません。
善意で言ってるのも分かりますし、一理あるにはあるものの、熱くなるあまりか脇が甘くなってる意見が多い印象です。
なので、今回は「~すべき」という意見をより良くするために江草が重要かなと思っているポイント3つを紹介します。
その3つとは、
- 挙げている根拠は事実か
- 論理は筋が通っているか
- 背景にある倫理観は洗練されているか
です。
ひとつずつ見ていきましょう。
挙げている根拠は事実か
1つめは「挙げている根拠は事実か」です。
どんなに筋道が立っている主張でも、根拠となる事実認識が間違っていたら元の木阿弥です。
たとえば、フェイクニュースなんてのは、事実そのものを曲げて虚偽の根拠に基づいて意見を主張しているわけですから、妥当な意見にはなりえません。
なので、根拠が事実かどうかというのは非常に大事なポイントになります。
もっとも、「根拠が事実である」を確保するのは簡単ではありません。
日常の場面では私たちは伝聞でしかないこともいつのまにか「事実」「常識」として扱いがちです。
「あの人○○らしいよ」という噂話も、まことしやかに語って広めてしまうのが私たち人間です。
ただ、こうした噂や伝聞に流されてしまう私たちの性質は仕方ないところがあります。
現実的に、なんでもかんでも事実を厳密に確認するのは不可能ですから。
実際、全ての物事の確証を得ながら生きている方はいないでしょう。
日常的なレベルではある程度、人の話はそのまま信頼して受け取るという慣習にしなければ世の中は回りません。
その点、科学者などの専門家はその辺りの厳密さを生業にしているだけあって、事実確認にはシビアですし、実際に知見も豊富です。
なので、フェイクニュースなどの「虚偽の根拠」に基づいた意見に対して、専門家は強く反発する傾向にあります。
虚偽の根拠に基づいた反ワクチンの言説に対して、医療関係者の多くが強く非難をするのもこうした背景があると考えられます。
そんなわけで、「根拠が事実かどうか」というのは良い意見を支える大事なポイントです。
もちろん、全ての根拠を厳密に確証を得るのは難しいまでも、自分の意見において重要な根拠となる部分については、できる範囲で「本当にこの根拠は事実なのか」を確認することで、意見がより良くなるでしょう。
論理は筋が通っているか
2つめのポイントは「論理は筋が通っているか」です。
どんなに正確な根拠を用意しても、それを基にした論証が妥当でなければ、これまた元の木阿弥です。
たとえば、「殺人犯の大多数がパンを食べた経験がある」は正しい事実だとしても、ここから「パン食が殺人の原因である」と導いてしまうのはおかしいですよね。
なぜなら殺人犯でなかろうともそもそも人類の多くはパンを食べた経験があるからで、殺人犯に固有の特徴ではないのですから。[1]もっとも、多少統計的に有意差があってもただちにパンに原因を求めることは難しいでしょう
これぐらい一目でおかしい理屈なら誰も引っかからないのですが、現実で交わされる議論は複雑なので、案外このレベルの論理的誤謬を犯してしまってることはあります。
ときに、これは専門家であってさえ、やりがちです。
これはあくまで江草の推測ですが、つい議論に熱くなったとき、専門家は自身の知ってる根拠がなまじ正しいだけに、「自分は正しい知識に基づいてるのだから」と油断してしまいがちなのかなと。
そうして、つい「自身の根拠の正しさ」にだけ頼って咄嗟に意見を述べてしまう結果、論理の妥当性を取りこぼしてしまう傾向があるんじゃないかなと感じてます。[2] … Continue reading
さきほど別ポイントとして紹介したように、「根拠の正しさ」と「論理の妥当性」は別物です。[3]厳密に言えば完全に分けられないとは思いますが
「根拠が正しい」からといって、「理屈が正しい」とは限らないのです。(逆もしかりです)
「根拠に乏しい主張」をする人たちを相手取ってコロナ禍で熱い主張を繰り返す中、「根拠の正しさ」にばかり気がとられて、なんとなく「論理的妥当性」への配慮がおろそかになってるんじゃないかなあと感じる医師インフルエンサーはしばしば見かけますので、ちょっと注意してほしいところです。
もっとも、「根拠の正しさ」と同様「論理的妥当性」を厳密に保つのも、これも非常に困難です。
自分で考えた論理の穴を自分で気づけたら苦労はしません。
考えた瞬間は、自分で本心から正しいと思ってるものです。
ただ、それでも「○○のせいだ!」と言う時には、他の可能性はないだろうか、反論の隙はないだろうか、一旦立ち止まってちょっと考えるだけで、防げる論理的誤謬はあるようには思います。
背景にある倫理観は洗練されているか
残る3つめは「背景にある倫理観は洗練されているか」です。
これ一番見落とされやすいのですが、「~すべき」系の意見には切っても切れない大事なポイントです。
「~すべき」という意見は規範的意見とも言いますが、その背景には「○○を大事にすべき」という何らかの倫理観が必ず隠されています。
たとえば、「法律違反だから人を殺すべきではない」という意見があるとすれば、これには「法律は守らねばならない」という倫理観が暗黙の前提として隠されています。
もちろん、これは一般的に言って疑問に思う人は少ないと言える有力な倫理観です。
ただ、じゃあ「どんなときでも法律を守らねばならないか」となると、意外と難しい問題になることに気づかれると思います。
もしも、法律違反をしないと自分の命やあるいは家族の命が守れない時、本当に法律を守らねばならないと言えるでしょうか。
こうした時に、人は複数の倫理観の狭間でジレンマに悩むことになります。
「正しい根拠」も「妥当な論理」も備えた意見でさえ陥ってしまう落とし穴がここにあります。
それは「その背景にある倫理観は正しいのか」という問題です。
「法律を守ることが絶対だ」という人と、「人命を守ることが絶対だ」という人では、ある程度シビアな条件下に置かれれば、同じ根拠を目の前にして妥当な論理的思考をしたとしても、違う「~すべき」の結論にはなりえてしまうのです。
ですので、「~すべき」の意見を主張する時には、この「背景にある倫理観」も大事な要素として存在するのです。
もっとも、実を言えば「これが絶対正しい」という倫理観があるのかは倫理学者の間でも結論が出ておらず、いまだ議論が続いているそうです。
すなわち、「倫理の問題に正解はあるのか」は人類未解決問題の一つと言えるでしょう。
ですから、掘り下げていけば、まずどんな問題でも「倫理観のジレンマ」に陥ることが避けられません。
つまり、「正しい倫理観」に基づいて意見を主張することは現状誰にとっても不可能ということになります。
なので、「正しい倫理観」に基づいて意見を主張しようなどという無理難題を江草も勧めているわけではありません。
ただ、これだけ倫理学者の間でも論争が続いていることから分かるように、どんな倫理観にも何かしら批判されてる弱点があることは押さえておいた方が良いのではないかと江草は提案したいのです。
コロナワクチン関連でも「命を救うためだから接種の順番の公平性なんて無視でいい」とか、「医療従事者のワクチン接種は職業倫理として当然だ」などと断言する意見がしばしば見受けられました。
確かに、根拠も論理もさほど変ではないのですが、「自分の倫理観こそ正義だ」と言わんばかりに断じる態度は、その背景にある「倫理観」の問題のややこしさに配慮をしているようには思えません。
それが果たして良い規範的意見と言えるかは、江草には疑問なのです。
(※過去に江草がこれらの問題を論じた関連記事を提示しておきます)


ですので、「~すべき」という意見を言う時には、この自分の意見がどんな倫理観に基づいているか注意を払うとより良い意見になると思います。
「命は大事だろう」とか「自由が一番」とか素朴に拙速に話を進めるのではなく、「この倫理的判断でいくとどういった問題が起こり得るだろうか」と少し深堀りして自分の倫理観を洗練しておき、自説の背景の倫理観をも批判の対象になり得ることは意識しておくべきではないでしょうか[4]っと、江草もついに「べき」を使ってしまいました。この背景にある倫理観はなんでしょうね。。
「根拠(事実)」+「倫理観」→(論理)→規範的意見
まとめます。
今回の話をすごくざっくりした構図で示すと、
「根拠(事実)」+「倫理観」→(論理)→規範的意見
ということになります。
「正しい事実認識」と「洗練された倫理観」の前提から、「妥当な論証」を通して、「~すべき」という「規範的意見の結論」に達するわけです。
なので、良い「~すべき」を言うためには、これらのポイントを押さえておくのが肝要なのです。
もっとも、何度か書いたように、言うは易しで、これらの3つのポイントを十分に押さえることは非常に難しいです。
言ってる江草も正直言ってできてる自信はありません。
なんなら、偉そうなことを言ってるこの記事そのものにも不足な点が多々ありそうに思い、怯えています。
ただ、これはあくまで江草の倫理観でしかないのですが、こうやって「自身の意見にも誤りがあるんではないか」と謙虚に進めることはやっぱり大事ではないかと思うんですよね。
とくに、社会問題になってるような大きな問題の時には、議論の集大成としては「事実」「論理」「倫理」いずれも高度なレベルに至ることが要求されるはずです。
だから、各々が簡単に結論に走らず、「なにかまだおかしいところがあるんではないか」と慎重に批判的に吟味することが不可欠ではないでしょうか。
もちろん、何度も言う通り、これは非常に難しいことです。
ですが、大事な問題であればこそ、難しいからといって逃げるわけにもいかないでしょう。
完璧にするのは不可能でも、個々でできる限りのことはすべきではないでしょうか。
以上です。ご清読ありがとうございました。
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