「専門家」にからめた議論で注意したい詭弁

先生のイラストクリティカルシンキング

おはようこんにちはこんばんは、江草です。

今日は「『専門家』にからめた議論の際に注意したい詭弁」について紹介します。

 

専門家に関してよく見る2つの主張

「専門家」に関連してよく聞く2つの主張があります。

専門家でない人物の意見を聞くな

1つ目は「専門家でない人物の意見を聞くな」という主張。

素人ほど自身の能力を過大評価しているという「ダニング・クルーガー効果」も引き合いに出されることも多いですね。

今回のコロナ禍でも顕著ですが、専門家でなく、あまり詳しくないのにもかかわらず妥当性に乏しい意見[1]もはやデマレベルのものもありますを言う人に対して言われることが多いです。

 

専門資格を取っても入り口にすぎない

2つ目は「専門資格を取っても入り口にすぎない」という主張。

医師免許や専門医資格でもよく言われます。

医師免許をもっても「免許はゴールではなくスタートにすぎない。それから勉強しないと話にならない」とされたり、「専門医資格を持っていても勉強してないやつはダメだ」など、専門資格を持っているにもかかわらず発言の妥当性が疑わしい人物を批判する文脈でよく出てきます。

 

使い分ければ、気に入らない意見を何でも排除できる危険性

さて、実際のところ、どちらの主張も一理はあるのです。

専門家の方が妥当性の高い意見を言う可能性は高いでしょうし、専門家でも妥当性が低い意見を言う者は居るでしょう。

そういう意味でこの両主張は必ずしも背反するものではありません。

しかし、注意しなくてはいけないのは、この2つの主張を使い分ければ、気に入らない意見は何でも排除できる点です。

 

ここに、気に入らない意見を言っているAという人物が居るとしましょう。

仮にAが専門家でない場合、前者の主張を用いて「専門家でもない人物の言う意見を聞く価値はない」と排除できます。

逆にAが専門家であった場合、後者の主張を用いて「専門資格を持っているだけでは入り口にすぎないからね。勉強してないんだね」と排除できます。[2] … Continue reading

このように、両者の主張を使い分ければ、ある時は専門資格を要求し、ある時は専門資格を持っていても否定する、と、気に入らない意見を便利に容易に排除することができてしまいます。

 

本物のスコットランド人の詭弁

このあたりのずるい議論は、有名な詭弁の「本物のスコットランド人の詭弁(No true Scotsman)」のパターンに類似しています。

 

論証: 「スコットランド人なら粥(ポリッジ)に砂糖は入れない」

応答: 「しかし、私の友人の Angus は粥に砂糖を入れますよ」

再応答: 「なるほど。だが、本物のスコットランド人なら粥に砂糖は入れない」

論証-Wikipedia

 

この論証の問題点は、反論を聞いてから、後から前提条件や事実認定を動かしていることです。

これが許されるなら反論に対応した条件変更を後からいくらでも付け加えて反証を回避することができます。

特にこの詭弁の中の「本物の」という言い訳は特徴的で、「あいつはちゃんとした医者とは言えない」などと、現実の類似議論中にも見て取れます。

安易に「本物の」を使うと、結局自身の主張に反してる存在を「偽物」と認定することで反証を永遠に否認することができるので、循環論法に近いと言えるでしょう。

 

間違いというわけではないので使い方に注意すればOK

先述の通り、確かにそれぞれの主張自体には一理あるのですが、両者を使い分けるとあまりにも便利に気に入らない意見を排除できる詭弁につながりうることには注意が要ると思います。

しかも、同一人物に両方の主張を同時に使うわけではないので、ほんとに注意していないと、自分が専門家でないAには前者の主張で排除、専門家であるBには後者の主張で排除と、無意識のうちに使い分けて自分がダブルスタンダードに陥っていることに気づかない恐れがあります。

これは適切な議論文化にはよろしくないことと江草は思います。

 

「専門家か否か」は読む前の選好の一要因として用いるのがよいのでは

江草としては、この両主張を、自身が読む意見を選好する時の選別基準の一要素として用いるのにはいいけれど、読んだ後の意見の内容の妥当性そのものを評価する時に使うのは適切ではないと考えます。

世の中には情報があふれかえっていますので、人間どうしても全てを読むことはできません。なので、読む情報を選別する材料として「専門家の意見かどうか」を用いるのは仕方ないことでしょう。

しかし、それを絶対的な必要条件としてしまうと専門家コミュニティ内の独善に陥る可能性もあるので、絶対的な条件ではなく、優先的な要因の1つとするぐらいがちょうどいいと思います。

 

そして、「専門家の意見が妥当性が高い傾向がある」というのは抽象化された場面の統計的な話であって、読む意見を選別するフェイズでは有用でも、現に眼前に具体的な一意見の内容が存在しdetailが問題となるフェイズではあまりこだわるべきではありません。

そのdetailとしてある内容そのものの具体的妥当性を問題にすべきで、意見の発出者が専門家かどうかは副次的な要素[3]もちろん無意味ではありませんでしかありません。

特に、あまり発出者の資格にこだわった批判は人身攻撃になりがちで、容易に詭弁の色を帯びてしまいます。

これは避けるべきことではないでしょうか。

 

とまあ、このように間違った主張というわけではないので、変なふうに自分が用いてないか注意した上で使う分には良いと思います。

なんか「『専門家でない人物の意見を聞くな』『専門資格を取っても入り口にすぎない』の両主張を時々便利に使っちゃってない?」と感じることが少しばかりありましたので、ちょっと注意喚起に書いてみました。

 

以上です。ご清読ありがとうございました。

脚注

脚注
1 もはやデマレベルのものもあります
2 時にもっと上位の資格を持ち出して「その専門資格を持ってるぐらいで偉そうに。○○の資格を取ってから言え」とつながるパターンもありますが、往々にしてそうした上位の資格だったり必要な追加条件というのは後出しで永遠に要求することができるので、結局はいつまでもAが意見を言う資格を否定することができます
3 もちろん無意味ではありません

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