「常識を疑う」を疑ってるのを疑う

先生のイラストクリティカルシンキング

おはようこんにちはこんばんは、江草です。

今日は、「常識を疑う」を疑ってるのを疑う話をします。

なんのこっちゃと思われるかもしれませんが、ほんとにそういう話なのですみません。

 

「常識を疑う」のは常識と知識を十分に備えた人だけ?

先日、「常識を疑え!」という言葉を批判しているつぶやきを拝見しまして。

 

 

素直に読むと、「常識を疑うのは常識を十分に備えてからにせよ」という文意と思われます。

 

念のため、続く他の方のコメントの

こちらなども参照しても、やはり「常識を修めてから疑いましょう」という趣旨で間違いなさそうです。

 

いずれのツイートも比較的多くの「いいね」と賛同のコメントを集めてらっしゃいます。

 

実のところ、お二方の発言の真意と、みなさんが賛同する気持ちも分からなくもないのです。

ただ、それでも「常識を疑うのは常識を備えてから」と言うのは誤解をはらんだ表現であり、適切ではないと江草は思うのです。

 

 

「常識を疑う」すなわち「常識を否定する」ではない

まず、もしかすると誤解されてるのではと思う点は、「常識を疑う」を「常識を否定する」という意味に結びつけてるように思われることです。

「かたなし」の例が出てきてる点でも、「常識を疑う」は「非常識な行動をする」ととらえられてる可能性は十分あるでしょう。

 

ただ実は、これはけっこう多い誤解なので、クリティカルシンキングの話でよくでてくるんです。

 

「相手の主張を疑う」というと、「相手の主張が間違いだと思う」というのと同じ意味のように思うかもしれないが、ここでいう「疑い」は、正しいとも間違っているとも判断しない判断保留の状態である。この状態をまず確保しないと、クリティカルシンキングを始めることはできない。

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せっかくていねいに分析したのに結論が変わらないのでは損をしたような気持ちになる読者もいるかもしれない。しかし、序でもいったが、クリティカルシンキングの目的はうがったことを言うことではなく、ある主張をしっかりした根拠のもとに受け入れることである。

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つまり、クリティカルシンキングの文脈では、「疑う」と言っても、すなわち「否定する」という意味ではなく、しっかり「根拠を吟味しよう」という意味であって、結果として「疑う対象となった結論を結局は受け入れること」もしょっちゅうあります。

 

医学界でも「論文を読む際は内容を鵜呑みにせず疑いながら読む」のは基本姿勢として浸透していますし、やはり「疑う」=「否定する」ではありません。

 

ですから、この場合、「常識を疑う」も、ただちに「常識を否定する」ではなく、「常識の根拠を吟味しよう」とか「しっかりとした根拠のもとに常識を受け入れよう」という意味を指します。

 

もちろん、世間の文脈では、「疑う」を「否定する」という意味で用いてるケースも少なくないでしょう。

冒頭のツイートもそういうケースを想定してのつぶやきだった、と見ることはできると思います。

 

しかし、このように「疑う」を「しっかり吟味する」という意味で用いる文脈が、しかもれっきとした正当な学術的な文脈で存在するのですから、その注釈なく簡単に「疑う」の言葉の意味を「否定する」の用法で扱ってしまうのは、誤解を招く不適切な表現ではないでしょうか。

 

「常識を吟味する」のは常識を十分備えてから?

いや、もしかすると「常識を疑う」を「常識を否定する」の意味で用いているとらえるのは、江草が邪推すぎるだけの可能性もあるかもしれません。

本当に「常識を疑う」を「常識を吟味する」の意味で用いていて、その上で「常識を吟味するのは常識を十分備えてからにすべきである」との主張なのかもしれないですよね。

 

ただ、残念ながら、それでもやはりしっくりこないのです。

 

さきほどの引用からも分かる通り、「常識を吟味する」のは「常識をしっかりとした根拠のもとで受け入れるため」に必要な作業です。

 

その常識を吟味することなしに、すなわち、常識をしっかりとした根拠のもとで受け入れることなしに、いったいどうやって常識を十分に備えることができるのでしょうか。

 

仮に、しっかりとした根拠を確認することなしに常識を学んだとして――たとえば常識を丸暗記するように学んだとして――それが「十分に備えた状態」と言えるとは到底思えません。

 

つまり、「常識を吟味せずに常識を十分に備えることは不可能」と言っていいでしょう。

「常識を吟味すること」は常識を十分に備えてからやるものではなく、常識を備えることと同時並行でやらねばならない、常識を十分に備えるためにこそ必要不可欠な作業なのです。

 

したがって、「疑う」=「吟味する」と好意的に解釈したとしても、「常識を疑うのは常識を十分備えてからにすべきである」との主張は、やはり適切ではないように思われるのです。

 

とはいえ当然「非常識」も疑わなくてはいけない

というわけで、冒頭の「常識を疑う」を疑ってるつぶやきに対する江草の疑問点を述べてきました。

ほら、「常識を疑う」を疑ってるのを疑う話だったでしょう?

 

とはいえ、表現は適切ではないと思いつつも、真意としては分からないではないとも述べました。

 

実のところ、おそらくお二方が批判したかったのは、「常識を疑え!」と言いながら、常識を学ぶことも吟味することもなく、いきなり「非常識」に飛びつくような方々なのだと思うのです。

 

それはもちろん、江草も大変懸念するものです。

「常識を疑うこと」は大切ですが、当然ながらそれと同時に「非常識を疑うこと」も大切なのですから。

 

ですので、江草が勝手ながら、冒頭のツイートの代わりを提示しますと。

 

「「常識を疑え!」と言うなら同時に「非常識も疑え!」と言いましょう」

というあたりが今回のケースで掲げるべきメッセージではないでしょうか。

 

うーん、あんまり「いいね」はつかなさそうですね。

 

以上です。ご清読ありがとうございました。

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