Don’t Be My Neighborhood

街の人々のイラスト社会

アドラー心理学によると「すべての悩みは人間関係である」のだそうです。

かなり強い断定なので、ほんとかどうかは議論の余地がありそうですが、確かに人にとって人間関係が大きな悩みなのは間違いないでしょう。

 

して、社会にとっても最大の悩みの一つがこの「人間関係」なのだろうなと思うのです。

具体的に言えば、「社会の嫌われ者をどうするのか」という問題です。

すなわち、「社会の嫌われ者と接するのは誰か」を決めるのに人はずっと争いあってるのかもしれないなと。

 

 

好き嫌いは人それぞれだけど

もちろん、どういう人に好感を持って、どういう人に嫌悪感を持つのかは、人それぞれです。

多くの人に嫌われてる人であっても、仲良くなってくれたり好きになってくれる人が皆無とは言い切れませんし、多くの人に好かれてる人であっても、嫌いだと感じてる人が少数いてもおかしくはないでしょう。

また、本人の努力や状況の変化で好かれるように改善されることもあるでしょうし、その逆もあるでしょう。

すなわち、好悪についてはあくまで固定的で絶対的なものではなく、流動的な性質と言えるでしょう。

 

こういう背景もあり、ここではどういう性質が好かれ、嫌われるのかという具体的な特徴についての話はしません。

具体的な特徴について語った途端、それは固定的であるかのような表現になってしまいますから。 

ただ、現実問題として、曖昧な概念ながらも「嫌われ者」というのは存在はしてしまってるとは言わざるを得ないでしょう。

 

 

人は嫌いな人から距離を取りたくなるもの

で、嫌いな人に対して人が距離を取りたくなるのは自然なことです。だって嫌いなのですから。

それが必ずしも善いこととは言い難いですけれど、誰もが「万人を愛せる聖人」になるのは現実的でない以上、距離を取りたい相手が発生してしまうのは致し方ないところでしょう。

好きになるように努力したり、我慢したりするのも限界がありますから、どうしても人は「嫌いな人からの解放」を求めてしまいます。

 

そうすると、社会の中において、皆が「嫌いな者」から距離を取ろうとする傾向が発生します。

各個人レベルでは好き嫌いは多様であっても、ある程度共通した好まれやすい性質や嫌われやすい性質が存在し、完全にランダムに人が人を好きになるわけではない以上、集団としての視野で見ると自然と「人気の度合いの格差」が発生します。

つまり、多くの人から好まれ人が集まる箇所ができると同時に、多くの人から嫌われ人が避けようとする箇所ができるわけです。

 

 

誰が「嫌われ者」と付き合うのかという社会の難題

さて、そうは言っても「嫌われ者」も社会の一員です。

過去の野蛮な時代には、そうした「嫌われ者」を追放したり、殺したりしていたのかもしれませんが、現代では社会の一員として「嫌われ者」も社会の一員として包摂する必要があります。[1]もっとも、いくら「嫌われ者」を排除しても、必ず社会の中で相対的な「嫌われ者」は存在するでしょう

なので誰が「嫌われ者」と付き合うのかという点が、社会の難題になります。

 

「隣の人とペアになってね」作戦

多分、少し昔までの社会では、学校とかでよく見かけるような「じゃあ隣の人とペアになってね」作戦だったのだと思います。

つまり、ある種の偶然の要素によって、強制的に割り振ることで「嫌われ者」も何かしらのコミュニティに入る仕組みです。

といっても完全にランダムなばかりではなく、特定の性質を持つ者にはある程度の選択権があったのに対し、他の特定の性質を持つ者には選択権がないという非対称性もよくありました。

なので、選択権がない上に「嫌われ者」とコミュニティを共にすることに強制的に決められた人の不幸や不満が避けられない仕組みと言えます。[2]なお、選択権がないことそのものが必ずしも不幸とは限らないという指摘はしばしばあり、「選択のパラドックス」などとしてよく議論になります

 

「自由にペアを作ってね」作戦

で、こうした仕組みが見直されて最近ポピュラーになったのが「じゃあ自由に好きな者同士でペアを作ってね」作戦です。

こうすれば不本意に「嫌われ者」とコミュニティを共にすることを強制されることはなくなりました。

ただ、当然と言えば当然ですが、今度は「嫌われ者」が取り残され、孤独になる問題が発生しました。

 

しかも、「嫌われ者」が「嫌われ者である」と明確に目立つようになったために、一度「嫌われ者」としてみなされると、誰からも避けられがちになり、ますます「嫌われ者」の立ち位置から抜け出しにくくなりました。

 

さらには、そうした「嫌われ者」のレッテルを貼られることを避けようと、無理やりどこかのコミュニティに所属しようとして、結局は不本意な状況に落ち着いてしまうケースも少なからず見られます。

 

また、たとえ「人気者」であったとしても、ひょんなことから「嫌われ者」に落ちるリスクに怯えるあまり「人気者であり続けねばならない」という強迫観念が生まれ、意外と息苦しい思いをしてる場合もあるようです。

 

万人が満足することはない”Don’t Be My Neighborhood”問題

こういうわけで、「強制的なコミュニティ形成」でも「自由なコミュニティ形成」でも、あるいはその間であってさえも、まず万人が満足することはないのでやっかいなのです。

「誰もが社会の一員として受け入れられるべきだ」と理念で語られた時には、表面上はみな賛同します。

でも、ひとたび「嫌われ者が自分の隣人になるかもしれない話」になると、それには難色を示すのです。

いわば”Don’t Be My Neighborhood”問題です。[3]“Not In My Back Yard”問題から着想を得た江草の勝手な造語です。英語的になんか怪しい気もしますが。

 

別にこれは「みんな偽善者だ」と言っているのではなく、このジレンマこそが「人間関係」が人の最大の悩みであるゆえんであり、ただただ「人類の永遠の課題だなあ」と思っているだけです。

  

「人間関係」の不安に良いビジョンが提示できるか

たとえば、現状、社会で優勢を誇っているリベラル資本主義のアンチテーゼとして、脱成長コミュニズムが言われ始めています。

けれど、こうしたアンチテーゼの体制も、この「嫌われ者」問題が解決できない点が結局はネックになるんじゃないかなと思うんですよね。

少なくとも今の「隣人」に満足してる人たちからすると、それが新たな「自分が嫌いなタイプの隣人」に置き換わるかもしれないことはかなりの恐怖になるはずですから。

 

だから、新たな社会像の提言をする時には、お金とか生活レベルがどうとかそういうところだけではなく、この「人間関係」の不安に関して何かしら良いビジョンが提示できないとうまくはいかないのではないでしょうか。

そして、それはとてもむずかしいし、実際にまだうまく提示できてはないんじゃないかなあと感じてます。

 

とはいえ、現行の社会も当然完璧というわけではないので、ほとほと「人間関係は人類の大きな悩みだな」と思います。

どうしたもんでしょうね。

    

 

以上です。ご清読ありがとうございました。

 

脚注

脚注
1 もっとも、いくら「嫌われ者」を排除しても、必ず社会の中で相対的な「嫌われ者」は存在するでしょう
2 なお、選択権がないことそのものが必ずしも不幸とは限らないという指摘はしばしばあり、「選択のパラドックス」などとしてよく議論になります
3 “Not In My Back Yard”問題から着想を得た江草の勝手な造語です。英語的になんか怪しい気もしますが。

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