おはようこんにちはこんばんは、江草です。
今日はコロナ禍の長期化でみんな大分追い詰められてるのではという話。
非医療者の人たちも限界にきてそう
感染拡大がとどまらず、コロナに対峙する医療機関や医療従事者の過酷な状況が続いています。
あちらこちらで医療者の悲痛な叫びがあがっており、医療現場が限界にきていることは、さすがに周知されてきた印象です。
一方で、会食に行ったり、パーティーしてみたり、そうした緊急事態宣言どこ吹く風な様子の動きをしている非医療者の方々の存在もしばしば確認されています。それを聞いた医療従事者が「こっちはこんなに大変な思いをしてるのに」と嘆息する展開が後を絶ちません。
まさに直接闘ってる現場の人からすれば、ため息をつきたくなるのも当然です。
ただ、江草としては、実際には医療者だけでなくそうした非医療者の人たちのメンタルも大分追い詰められてきている印象があり、無下に否定しがたいです。
彼らも本気でノーテンキに遊び回っているというよりは、大分追い詰められてるからこその奔放な行動の可能性もあるのではないでしょうか。
非医療者の方々も別種の辛さがあると思う
直接対峙する医療従事者にとってコロナ禍はもちろん辛いのですが、現場で直接コロナ対応をするわけではない非医療者の方々にとってもやはりコロナ禍は別種の辛さがあるように思います。
医療者は医学知識や経験そして医療従事者同士の強固なコミュニティがあるので、コロナに関する正確な情報をいち早く聞くことができますし、「コロナの脅威」を自分の頭で明確に理解し認識することができます。
しかし、ほとんどの非医療者の人はそうした医学知識を咀嚼することができず、情報源も何を信頼していいものか感覚がつかめません。
まさに五里霧中という状態で、全く目に見えないよくわからないものをただただ「脅威と認知しろ」と約1年間言われ続けてるわけです。
状況は理解することができている医療者と違って、理解できない状態に置かれ続けるのもそれはまた別の意味で大変に辛い状況だと思うんです。
正体不明、先行き不明の脅威を直視するのは誰でもきつい
先が見えないもの、現状がよくわからないものを、ただひたすら「やばいやばい」と言われると、不安だけが高まります。
キューブラーロスのモデル[1]本来は「死の受容」のモデルなので、援用できるものかは知りませんが、同様の心理の動きはありえるかなと思った次第ですのように、不安すぎて抑うつになったり、逆に「脅威を認めない」「そんなものはないに違いない」と脅威の存在を否認するのも無理はないかもしれません。
さらに言えば、「こうなったのは医療界の責任だ」と他人の責任を追及して憤怒したり、「政府が急いでワクチンを配布したらなんとかなるんじゃないか」「PCRをしまくったらなんとかなるんじゃないか」と「取引」をしはじめたり、といった反応も同様に不安から来てる可能性はありそうです。
なんなら、医療者の方だって「あの遊んでるやつらさえちゃんとしてれば感染は収まるのに」と他人の責任にして不安を紛らわせている可能性も否定はできないでしょう。
あの岩田先生をしてこの100年で最悪の感染症といわしめたコロナです[2]岩田先生のブログ記事「成人式には行かないで」。
要はみんな不安で恐いのだと思います。
当然です。こんなの誰だってきついと思います。
だから、遊び回ってる人たちだって、「遊び回るのを止めてしまったらコロナの脅威の存在を認めたことになってしまう(それは怖すぎて嫌だ)」――そんな不安な気持ちが潜在的にはあるんじゃないでしょうか[3]だから遊んでいいという話ではないですよ。気持ちは分からないでもないという話です。。
新しいコミュニティ形成方法が必要
実際のところ、江草の(非医療者の)家族や親族、友人も、あまりにも先が見えない自粛体制が続いた上で結局再度の緊急事態宣言で、いよいよ最近はさすがに大分限界が来ている印象があります。
落ち込んでる声を聞くと、ほんとは会いに行ってあげたり、何かでパーッと遊んで欲しい気持ちはあるのですが、それでも「コロナが落ち着いたら会おうね」とか「でも会食は控えてね」と言うしかないのがつらいところです。
不安を解消するコミュニティも機能不全が疑われる
医療者ではコロナに対する認識が大きく異なることは少ないと思いますが[4]もちろん、ないわけではないです、市井の非医療者間ではコロナの脅威を重く見ている人と、軽く見ている人(脅威を認めたくない人も含む)が幅広く混在していることもけっこう問題のようです。
例えば、コロナ軽視派がコロナ心配派の人を飲みに誘ったとします。コロナ心配派の人からすると「なんでこんな時に飲みに誘うのか、非常識だ」と感じるでしょう。一方のコロナを理由に断られたコロナ軽視派の人も「なんだあいつコロナにビビってやがる、小心者め」と相手をなじるでしょう。
ただでさえ対面での親密なコミュニケーションが取りにくい今の社会で、コロナに対する認識の違いから人同士の温度差がより開いてしまうのです。
こんな感じで本来不安を解消するはずの人同士のコミュニティの機能が失われて、けっこう孤独感や戸惑いは広がってるように思います。
コロナ禍長期化に向けて、新しいコミュニティ形成のあり方が必要かも
残念ながら、よっぽどの奇跡でも起きない限り、コロナ禍がまだまだ続くのは間違いないように思われます。
だからそろそろコロナ禍の長期化を見据えて、zoomでもなんでもいいので、なんとか会食や対面によらないコミュニティ形成の方法を作り上げないと、いよいよみんなのメンタルが追い込まれてまずいのではないでしょうか。
確かに今や会食は不要不急の行為だとしても、他人との他愛のないコミュニケーションの機会というのは誰にだって必要なことだと思います。
なんとかしないと。
以上です。ご清読ありがとうございました。
脚注
↑1 | 本来は「死の受容」のモデルなので、援用できるものかは知りませんが、同様の心理の動きはありえるかなと思った次第です |
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↑2 | 岩田先生のブログ記事「成人式には行かないで」 |
↑3 | だから遊んでいいという話ではないですよ。気持ちは分からないでもないという話です。 |
↑4 | もちろん、ないわけではないです |
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