古代ギリシャではアリストテレスが『詩学』を書き、中国では科挙で「詩作」が試験問題に採用されてたと言います。
過去には「詩」が明らかに重要な地位を占めていたことがうかがえます。
しかし、現代では詩の存在感はかすかなものです。
たとえば、書店を見てみてください。
詩のコーナーなんて書店の片隅にちょこんとあるだけの、すみっコぐらしです。
満員電車のようにひしめき合う自己啓発本の一団とはえらい違いです。
それどころか世の中、「ポエムだ」などと言って他人の発言を揶揄するための用法さえ発生しています。
どうしてこうなってしまったのでしょう。
もちろん、その答えは江草も分からないですけれど。
ただ、どうも現代人は「言葉の正しさ」ばかりを重視して、「言葉の美しさ」の大切さを置いてきてしまったように感じます。
たしかに、論理実証主義的に、エビデンスやデータを重視する物事の語られ方が有用であったのは間違いありません。
そうした「正しさにこだわる言葉」が発展しなければ、今の科学技術の恩恵を得ることは難しかったでしょう。
しかし、何事も過ぎたるは及ばざるが如しです。
私たちは「正しさ」にばかり注力しすぎてしまったんじゃないでしょうか。
最近でこそ「事実だけでは人の心を動かすことはできない」ということが知られてきた気はします。
私たちはようやく「正しさ」に偏りすぎたことに反省し始めているとも言えます。
そう考えると、昔の人々は「正しさ」だけに注力するやり方の危険性を重々承知だったということかもしれせん。
正しいだけの言葉は心に響かず、美しいだけの言葉は空虚だと。
多分、彼らは知っていたのです。
だから、両者を兼ね備えた言葉使いができることを目指した。
だから、エリートたる者、詩についても当然のように精通していないといけなかった。
そういうことなのではないでしょうか。
よく言われる、
“Cool Head, but Warm Heart.”
というフレーズ。
けだし名言です。
この名言と同様の感覚で、片手に「正しさ」という氷、片手に「美しさ」という炎を携えれば、どんな読み手の心も融かすメドローアのような文章になるはずです[1]「メドローア」とはマンガ『ダイの大冒険』に出てくる呪文の名前です。
江草も、身の程知らずなのは承知の上で、そういう文章が書きたいなあと思ってます。
以上です。ご清読ありがとうございました。
脚注
↑1 | 「メドローア」とはマンガ『ダイの大冒険』に出てくる呪文の名前です |
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