それなりにネットゲームをプレイした経験による人生の学びの一つは、「人は不正をするもの」と知れたことでした。
残念ながら、ゲーム運営は不正ツールとの闘いと言っていいぐらい、ネットゲームでは「チート[1]cheat; 不正」がはびこってます。
自分のキャラが無敵になるとか、(本来見えないはずの)相手の場所が見えたりとか、操作せずとも自動で相手を瞬殺できるとか、世の中には不正ツールが次から次へと出てきます。
不正ツールを使ってゲームに勝って何が楽しいんだと、江草も平凡なプレイヤーの一人として思いますし、ほどんどのプレイヤーもそう思っているでしょう。
でも、いくら運営側が頑張って取り締まっても、そうした「チーター」たちは必ず出現してしまうのです。
要するに、彼らはゲームを楽しもうとしているわけではないのでしょう。
彼らにとって、ゲームはただの手段であって、「強者として強力な力で弱者を打ちのめす体験」を楽しんでいるのです。
「上位」に自分がなれるのであれば、ルール違反だろうと、モラルに反しようと、かまわないのです。
悲しいことに、こうした「ヒエラルキーの上位」への欲望のために手段を選ばない人たちは、現実世界でもしばしば観測されます。
「なめられないように」と発注先を恫喝した某国のデジタル相。
某T社とK産省が不当に結託した株主総会問題。
ドーピングをするアスリート。
などなど。
「優越したい」「優越した地位を維持したい、誇示したい」という欲望は人を不正に走らせます。
もっとも、これらの事例ならば、絶大な権力やお金、名誉が関わっていますから、そうした巨大な目的のために手段を選ばない、いわゆる「マキャベリスト」が出てくるのは分からないでもありません。
この時点ではひとまず「やっぱり大きな権力やお金や名誉は人を狂わせるよね。人間ほどほどが大事だよね」などと、腹落ちすることは可能でしょう。
ただ、ネットゲームでのチーターを見ていると、話はそう単純ではないように思うのです。
なぜなら、彼らはネットゲームでチートをしたところで、権力もお金も名誉も全く得られないからです。
それでも彼らは不正ツールを使って日々「不当な勝利」を積み上げることにいそしんでいます。
むしろ、チーターはわざわざ下手であることが分かっている駆け出しの初心者プレイヤー狩りを楽しんだりします。そのためにアカウントをわざわざ手間をかけて作り直すことさえあるようです[2]しばらく同じアカウントで初心者を狩り続けていると「実力があるアカウント」とみなされ強い人と当たりやすくなる仕様のゲームがあるので。
つまり、あくまで彼らは初心者レベルの層を荒らし回るだけで、本当の意味で絶対的な「ヒエラルキーの上位」に立とうとさえしていません。
ただただ、「弱いものいじめによる優越感」を刹那的に求めてるのです。
この光景を踏まえれば、人はときに、権力もお金も名誉も関係なく、なんならそれが自分の実力でなくたって関係なく、純粋に「優越感」を求めて不正を働くことがあると認めざるをえないでしょう。
こうした時に「そういうけしからん奴はしっかり取り締まって排除だ」と考えるのは簡単です。
ただ、なにごとも「人の振り見て我が振り直せ」です。
「悪いあいつら、善い自分たち」と安易に彼我を分けて考えずに、もしかしたら自分たちにもそういう側面があるかもしれないと注意することは必要でしょう。
実のところ、胸に手を当てて考えてみれば、「優越感の呪い」から完全に解き放たれてる人はそうはいないのではないでしょうか。
言ってる江草だってもちろん全然です。
今現在「優越感」への渇望のため不正に手を出すなんてありえないと感じてる人も、たまたま正規のルートで「優越感」が運良く満たされてるから、その渇望を感じずに済んでるだけかもしれません。
人生の中で運良く「勝利」をほどよくつかめてきただけで、不正に手を出さずに済んでるのはたまたまなのかもしれません。
もちろん、こうした想像をすることは不快なことです。
また、個人の努力に対する非礼を承知で書いてます。
でも、まかり間違えば、自分だってそこまで追い込まれてたかもしれないと、時々謙虚に想像することは、人生や社会を考える上で大事な姿勢ではないでしょうか。
さて、最近のトレンドとして、競争社会や能力主義への批判が高まってきています。
いわば、「資本主義」という名の「事実上のヒエラルキー社会」への反発が広がっていると言えます。
従って、その対案として掲げられるのが「平等主義的な社会」です。
江草も現行の競争社会や能力主義は行き過ぎている印象は抱いており、こうした「平等主義的な社会」をいくらか好意的に見てはいます。
ただ、同時に課題は色々あるので、まだ諸手を挙げて賛成とは言えないとも思うのですよね。
その課題のひとつが、今回指摘している「優越感への渇望」の存在です。
人が誰しも潜在的に「優越感への渇望」の気持ちを抱いているのだとすれば、見かけ上「平等」にしたところで、人々の中で何かしらの「ヒエラルキー」を作り出す動きが出るのは避けられません。
それも、不正や不道徳的であることなんておかまいなしに、です。
だから、たとえ「平等主義的な社会」を掲げるにせよ、この「優越感」をどうにか人々に供給する仕掛けが結局は必要になってくると思うんですよね。
「平等」と矛盾するようですが、最初からこれを組み込んで設計してないと、かえってひどいことになるように思うのです。
現在の社会が残念ながらそうであるように、「優越感」の渇望を野放図に放置すると、まるで癌細胞のように社会の重要システムを食い破ったり、人々が時に命がけで争い合ったりしてしまうのですから。
なので、ある程度コントロールされた状況下で、社会の重大システムを毀損することなく「思う存分のバトル」ができ、かつ人々がそれなりに満足感が得られるような、そういう仕組みが要るわけです。
具体的な案までは思いついてはいないのですが、それはやはりゲームだったり、スポーツだったり、あるいはコンテストの形を借りることになるのではないかとは思います。
いずれにせよ、大変に難しい作業ではありそうですが、こうした「優越感を渇望するチーターの社会上の居場所」は意外と今後大事な課題になるんじゃないでしょうか。
以上です。ご清読ありがとうございました。
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