「キャンセルカルチャー」批判は量刑の議論

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差別発言など不適切な発言をした人物を辞任や契約解除に追い込む「キャンセルカルチャー」がしばしば議論になってます。

 

たとえば、少し前に五輪組織委を辞任した森元総理、実際ひどい発言でした。

あまりの内容に辞任を求める世論が高まり、結果実際に辞任されました。

江草個人的にも「そりゃそうだ」と賛同する気持ちはあります。

 

ただ、そうした、すぐに辞任に追い込む「キャンセルカルチャー」に対しては「自由な発言ができなくなる」という批判も根強いものがあります。

実際その批判も一理あります。

「キャンセルカルチャー」が当たり前になれば、非難を受けたり、辞任に追い込まれるのを恐れて、多くの人が無難な発言しかできなくなる可能性は十分ありえるでしょう。

いわば、副作用として社会での「心理的安全性」が失われうるわけです。

これはやはりデメリットとして認知しておくべき事項かと思います。

 

 

もちろん、だからといって、そもそもの森元総理のような差別発言が許されるわけではありません。

そうした発言に対して怒りの声があがることももっともだろうと思います。

ただ、「有罪であるかどうか」と「その罪に対してどの程度の罰を与えるべきか」はあくまで別のレイヤーの問題ではないかと思うのです。

 

たとえば、「万引は犯罪だ」まではほとんどの人が同意するところであっても、「その万引に対してどこまでの罰を与えるべきか」は人によって意見のばらつきがあり、もう一段悩ましい議論になるはずです。

つまり、「差別発言は許されない」という意見と「キャンセルカルチャーはやり過ぎだ」という意見は両立しうるわけです。

少なくとも、極刑に賛同しないからといって、その人に対し「差別発言を容認している」、ましてや「不問に付している」と判断するのは誤りでしょう。

 

 

もとより、司法の世界において「どの程度の罰を与えるべきか」という量刑の判断は難しいと聞きます。

医療にたとえてみれば、癌かどうかは研修医でさえ分かるようなあからさまな腫瘍影であっても、どの程度の深達度かどうか、どういった治療方針が勧められるかを判断するのはベテランでないと難しいのと似ています。

そんな専門家でも悩みながら各種事情を鑑みて冷静に慎重に決めるような「量刑」を、大衆の熱狂の中で決めるのはやはり危険をはらんだものではないでしょうか。

ましてやそれが「重い罰」になりがちなら、なおさらです。

 

 

ただし、「量刑の判断は難しい」ということは、逆に言えば、「辞任させるのはやりすぎだ」という意見の方も必ずしも断定できないことになります。

つまり、なんでもかんでも辞任させようとする「キャンセルカルチャー」は批判されるべきであるとしたとしても、その上であってなお、個別事例においては「やっぱり辞任させたほうがよい」というケースは残りうるわけです。[1] … Continue reading

 

結局のところ、「辞任させるべき」とも「辞任させるべきでない」とも、簡単に即断できないからこそ「量刑は難しい」のです。

少なくとも、そのどちらかをいきなり「当然だ」として決めつけることはできないし、してはいけないと思うのです。

 

 

 

まとめますと。

「キャンセルカルチャー」に対する批判は、「対象の発言が有罪か無罪か」という切り口ではなく、「その量刑の是非」あるいは「量刑決定プロセスの是非」に関する議論だと理解するのが妥当と思います。

それでいて、「量刑」というのは本来一筋縄ではない難しいテーマと認識して、どの立場の人であっても安易に即断せず慎重に考えるべきと思うのです。

 

 

以上です。ご清読ありがとうございました。

 

脚注

脚注
1 「失言をきっかけに辞任することはあってはならない」まで言ってしまうと、それは単純な「キャンセルカルチャー批判」以上に強い主張であって、いわば「どんな重罪を犯した者であっても決して死刑にしてはいけない」とする「死刑廃止論」に近いものになります

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