マイケル・サンデル氏の『実力も運のうち 能力主義は正義か?』を読んでると、人の「承認欲求」の根深さを感じます。
たとえば、SNSで人はみななんだかんだ「いいね」や「フォロワー数」を欲してますよね。
時に、「フォロワーさん減っても気にしないですし」的な発言する方もいますけれど、わざわざそういう発言をするって時点でやっぱり気にしてるのじゃないでしょうか。(本当に気にしてないなら言わないでしょう)
こう言う江草もついつい「承認」を気にしてしまう弱い人間です。それを自覚してるので、通知も絞ってますし、twitterも「おだやかTwitter」の拡張機能を用いて、もはや「いいね数」や「リツイート数」や「フォロワー数」が表示されない仕様にしています。
おだやかです。

とはいえ、これもあくまで対症療法。
やっぱり業にまみれた人間なので、時折、ウズウズと「承認欲求」が湧いてきちゃうんですよね。
いかんいかん。
で、話は戻って、現実社会。
もともと、自由主義の主要な思想家達は「市場での成功[1]お金を稼ぐこと」と「道徳的な功績[2]善いことをしたとみなされること」が単純に関連付けられることを危険視していました。
でも、現実には結局「能力主義(メリトクラシー)」が社会にはびこって、「市場の成功」と「道徳的な功績」がガッチリ関連付けられてしまった惨状を、サンデル氏は鋭く指摘しています。
実際、よく聞く話ですが、お金をいくら稼いでいても、それで人は満足しません。
お金の限界効用が逓減したら[3]「限界効用逓減」、次は名誉も欲しくなるのが人というもの。
「厳しい競争を勝ち抜いてお金を稼いで成功した」という自負心から、そのことをもって「自分は偉大な善い人間である」と思いこみたくなるのも分からないではないのですよね。
これは結局、「いいね」と言われたい「承認欲求」の呪縛からは、お金持ちでさえ脱出することができないという厳しい現実を示しているとも言えるでしょう。
そして、これこそがメリトクラシーを助長し、社会に分断を引き起こした根源ではないでしょうか。
このように、しばしば社会問題の背景にもなってしまっている「承認欲求」の呪縛。
これをどう扱ったらいいか、というのは全人類の最大の悩みの一つでしょう。
一つの策としては「解脱」という方法があります。
悟りを開いて、「承認欲求」から抜け出すという方法です。
まあ、でもこれができたら苦労しないって話ですよね。
で、もう一つ、江草が勝手に思いついた方法が「ベーシックいいねカム」です。
言わずとしれた「ベーシックインカム」はあまねく人々に隔てなく「お金」を供給するというものですが、「ベーシックいいねカム」はその「いいね」版です。
つまり、「いいね」をあまねく人々に配るわけです。
たとえば、twitterで発言すると、人間に模したAIが「いいね」をそっと付けてくれるとか。
もちろん機械的に配られると、人間に「いいね」された感がないので、多少のランダム感や揺れを付与して、「いいね」が付くようにするわけです。
そうすると、まあちょっとしたことではあるのですが、承認欲求が満たされはするはずです。
とはいえ、これは、なんというか人をだまくらかすようなシステムですし、SNSの意義の根底から崩しちゃうような話ですし、そもそも現実世界では使えない方法ということで、自分で言っといてなんですが、現実的な策ではないでしょう。
ただ、この「ベーシックいいねカム」のような発想で、「いいね」の総供給量を増やすという方向性は、今の社会に求められてることなのかもしれないなとは思うのです。
「良かった」と思ったら、ちゃんと「良かった」と言ってあげるとか。
何気ないことにも感謝するとか。
なんなら、何もなくても、何でなくても、ただただ存在に感謝するとか。
そうした「いいね」の積極的明示の運動は、「承認欲求」に対抗する一つの社会的手段になるかもしれません。
以上です。ご清読ありがとうございました。
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