「ありがとう」と言わせることはなぜモヤモヤするのか

コーヒータイムのイラスト社会

件の伊是名氏のJR車椅子問題に関連して、「なぜ『ありがとう』と感謝の気持ちを言えないのか」という議論が観測されています。

 

なぜ「ありがとう」が言えないのか
「ありがとう」といわれる立場になったことがほとんど無い、という残酷な話なんじゃないかな

 

江草としても、今回の個別事例として、「ありがとう」の言葉を求める気持ちは分からないでもありません。

ただ、はっきりとそう「ありがとうと言うべきである」と主張されることには、同時にモヤモヤも残るんですよね。

実際、この議論についてはかなり賛否両論入り乱れていて、みなさんもモヤモヤと悩まれてる問題なのかなと感じます。

完全な解答というものはもちろん存在し得ないですが、江草なりに「なぜモヤモヤするのか」を考えてみました。

 

 

 

「ありがとう」と言わせる主張になぜモヤモヤするのか。

つまるところ、これは《感謝》を《交換》の材料として用いることへのモヤモヤではないかと思うんです。

 

言うまでもなく、現代社会は資本主義に則って、《交換》を基盤とした市場原理で動いています。

その《交換》の規範においては、お互いに相応の品をテーブルに置くことが求められます。

実際に、それでお互いに納得するものを置ければ《交換》成立です。

逆に納得しなければ、《交換》は決裂し、お互いただ立ち去ることになります。

 

さて、もし仮にこの《交換》の規範を、伊是名氏の件の車椅子移動のサポートのような支援の場に当てはめるとどうなるでしょう。

なお、支援を受ける立場の方がお金を出すべきだ、という意見もあるにはあるのは存じています[1]まあまあ課題が多い主張と思いますが。しかし、ここでは伊是名氏の事例や現行の運用体制に基づいて、あくまで金銭授受はないとしましょう。

すると、支援を受ける側の人物がタダで支援を受けると《交換》としては成立しえないのは自明です。

ここで、この場が《交換》の規範に基づいているならば、「せめて《感謝》をテーブルに差し出せ」と求めることが正当化しうるようになります。

たとえば飲食店でご飯を食べたけれど、持ち合わせが足りなかった時。それで許してもらえるかは分からないけれど、「せめてあるだけは払え」と言われるでしょう。

それと同じで、足りてるかどうかはさておき、「できるだけ対価を出せ」と言えるのが《交換》の規範です。

 

これは、もちろん仮定の話です。

ですが、江草としては、「ありがとうと言え」批判の中には、どうも本当にこのような流れで《交換》の規範に則って伊是名氏に《感謝》を要求してる向きがあるのではないかと疑うのです。

これだけでは説得力ゼロなので、もうちょっと紐解いていきますね。

 

 

まず、《感謝》が《交換》にふさわしいかどうかの話をしましょう。

これに関しては最近、関連するような話がバズっていました。

 

飲食店のレジで「お金払ったのになんでお礼言うの?」と疑問に思うお子さんへお母さんが適切な回答をしていた「とても大切なこと」
お互い気持ちいい

 

「飲食店でお金を払ったのに、さらに御礼を言うのはなぜか」という話です。

すなわち、代金を支払うという《交換》の場とは、別の文脈で《感謝》の気持ちを述べているのだ、と。

コメントを見るに、この意見には賛同多数のようです。江草も賛同します。

 

このまとめから分かるのは、江草を含め、多くの方が《交換》の文脈と《感謝》の文脈は分離させる必要があると考えているということです。

おそらくですが、無機質で人格がない《交換》という作業と、人間的情動である《感謝》という気持ちを混ぜ込むことに、無意識のうちに人は違和感を抱くのでしょう[2]少し設定は違いますが、作家の橘玲氏が語る「貨幣空間」と「愛情空間」の区別に近いものを感じます

 

となると、「JR駅で支援してもらうのと引き換えにせめて感謝の意を述べろ」というのは、まさしく《交換》の場に《感謝》を要求していることになります。

すなわち、批判者の発言を見るに、「(対等な交換なく)一方的に受けとる側なのだから、助けてもらいたいならせめてその分感謝しろよ」という《交換》の論理に横滑りしているように聞こえるのです。

これがモヤモヤの正体ではないかと思うのです。

 

 

もっとも、これではこういう疑問が沸くでしょう。

「ありがとうと言え」という批判が《交換》の規範を前提にしているとなぜ言えるのか、と。

 

確かに実際、金銭授受もないのだし、少なくともこれを《交換》の場とする決定的な証拠はありません。

見た目上は金銭の媒介していない、商取引とは無縁の場面です。

なんなら、人が人を助けるという、まさしく人間的な情動に溢れた場面とも言えるでしょう。

その点は江草も認めます。

 

ただ、《交換》の場である確証がないからと言って、批判者がこれを《交換》の場として扱ってない保証も同じくないのです。

思った以上に《交換》の場か否かというのは非常に繊細な違いです。

パッと見では分からないからこそ、注意しないといけないところなのです。

この点は、伊是名氏の場面での《感謝》と、さきほどの「代金を払ったのに御礼を言う理由」のまとめででてきた飲食店のレジの場面での《感謝》の性質の違いを紐解けば見えてきます。

 

飲食店のレジで「ありがとう」という時。これは《交換》ではないとはっきりしています。

なぜなら、金銭の授受があるからです。

すでに、金銭の授受を介して完結した《交換》が済んでいることが明らかであるからこそ、その上で追加で放たれる《感謝》の言葉が《交換》でないことが保証されます。

すなわち、《交換》の文脈と、《感謝》の文脈が分離していることが自明なのです。

 

しかし、JR駅で支援を受ける場面では、金銭授受がないために、《交換》が不在です。

この不在。《交換》するべきでない場と見ることもできますが、同時に《交換》が未成立の場とも見ることができる余地を与えています。

すなわち、《交換》が明らかに済んでいるなら《交換》が入り込んでくる可能性はないけれども、《交換》が不在であれば《交換》が入り込んできうる可能性を残してしまうのです。

《交換》が明確独立に存在していないからこそ、《感謝》と《交換》の分離が不明瞭になりやすいので、その場面の実施において《感謝》と《交換》の混線に特に注意が必要になるのです。

 

だから、リスクがある以上、本当に「ありがとうと言え」と言う批判が《交換》の規範を前提としていないかどうかを判断するには、批判者の言説の中で「いつの間にか《感謝》の意味が《交換》の規範の文脈の中で扱われてないか」を考えてみる必要があるでしょう。

 

たとえば、冒頭のまとめでもよく出てくるのが「返せる」「返せない」という言葉。

あるいは、「フリーライダー」や「価値」と言った言葉も散見します。

また、「JR側も駅のバリアフリー化にはお金がかかるのだ」と金銭的限界を強調した後に引き続いて行われる《感謝》の要求。

これらの言説は、もらった分を返さないといけないとする《交換》の規範にいつの間にか入り込んではいないでしょうか。

 

もちろん、もとより曖昧な領域なので、断言はできません。人によって受け取り方も違うところでしょう。

しかし、江草には、この議論の中にこうした《交換》の規範の背景がどうも見えてしまうのです。

 

ときに、ちょうどマイケル・サンデルのメリトクラシー(能力主義)批判本が話題になっているところです。

 

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「被支援者」に《感謝》の気持ちを要求することは、これこそ「能力のある者」が「能力のない者」を侮蔑してる事例と捉えられかねないところです。

いい機会ですし、今一度、《感謝》を《交換》の俎上に載せていないかは注意するべきではないでしょうか。

これだけ繊細で避けるべき混線が起こりやすい場面なのですから、伊是名氏を批判するにしても、せめて「感謝の気持ち」と「支援」が《交換》ではないことを明言しておかないとまずいのではないでしょうか。

 

 

 

もっとも、今回はあくまで《感謝》を《交換》と混ぜるのを注意しようと言ってるだけで、《感謝》の気持ちが不要ではないというのは明言しておきます。

やっぱり、「ありがとう」ぐらい言って欲しい、という気持ちも分かります。

そりゃ「ありがとう」と言われなくとも仕事はするけれども、あまりにも感謝されなさすぎると現場の者の心が折れるのも確かでしょう。

それが人間です。

 

でも、それでも、一方的に支援してもらわないとならない人に対して「感謝しろ」と他人が明言的に要求することは、やはりラインを超えてしまってると思うのです。

《感謝》は内心欲しいと思うことはできこそすれ、他人に要求してはならないし、そもそも要求することもできない性質の代物ではないでしょうか。

 

 

以上です。ご清読ありがとうございました。

 

脚注

脚注
1 まあまあ課題が多い主張と思いますが
2 少し設定は違いますが、作家の橘玲氏が語る「貨幣空間」と「愛情空間」の区別に近いものを感じます

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