> [!NOTE] 過去ブログ記事のアーカイブです おはようこんにちはこんばんは、江草です。 今日は、権力者と哲学者の関係性にまつわる人間社会のちょっと悲しい現実についての軽いお話です。 最近、通勤などの移動時間にプラトン対話篇をいくつか読んでました。 具体的には「メノン」「ゴルギアス」「プロタゴラス」です。 いずれも、「無知の知」で有名な哲学者ソクラテスが、当時、弁論術を操って社会への強大な影響力を有していたソフィストたちと議論をするお話です。 ソフィストたちもロジックに長けた優秀な人達なのですが、それぞれ「自分は徳のことをよく分かってる」と、ちょっと傲慢な面があります。 「分かってるとおっしゃるなら徳のことを是非教えて下さい」と問うソクラテスに対し、ソフィスト達は「もちろんよいとも」と快く議論を引き受けてしまいますが、ソクラテスの本質を突いた鋭い質問の前に、たちまち旗色が悪くなり窮地に立たされてしまうわけです。 この流れが、小気味良いというか、読んでて爽快で大変面白いです。 ネット上では「はい、論破」が軽々しく使われてますが、これらの本では、そのような陳腐なものでない「ガチな論破」が体験できます。 対話篇はずっと会話調なので読みやすいのも良いですね。 これらの本を読むと、ソクラテスが確かに権力者にとってはかなり鬱陶しい人物だったんだなというのも分かります。 言ってみれば、ソクラテスは「正論セイヤー」で、ごまかしを一切許さない哲学者なんですよね。 往々にして、権力者に多い「偉そうにしている人」というのは、どこかで「自分はよく分かってる」と外部に示す傲慢さを持ち合わせてしまうものですから、そこを哲学者に正論で突かれると一気に瓦解してしまうのです。 うかつに哲学者の議論を受け入れてしまったら最後、ぐうの音も出ないほど理屈ではやり込められてしまいます。これでは面目丸つぶれなわけです。 権力者にとって、哲学者はまさに脅威と言えるでしょう。 しかし、哲学者は脅威であると同時に、対処も容易いことも気づいてしまいました。 要するに正論で問い詰められると辛いのだから、ハナから議論を受け入れなかったらいいわけですね。 現代の為政者もそうですけど、「覚えてない」だの、「記録にない」だの、「持ち帰って検討します」だのして、ことごとく議論を避けてしまえば馬脚を現してしまうことはないのです。 だから、議論を引き受けたソフィスト達は誠実ではあったけれども、処世術としては賢明ではなかったとも言えそうです。 ただ、社会がちゃんとした議論を求めていて、そうした議論を避ける権力者の態度自体をきっちり問題にできれば、権力者も否応なく議論のリングに立たねばならないはずです。 でも、これもまた権力者にとっては容易に対処可能な問題なんですよね。 なぜって、哲学者は人気が出にくい、言い換えると、人心掌握能力がそんなに高くないからです。 本を読むと分かるのですが、哲学者はひたすら話が長くて難しいです。 きっちり議論をしようとすると、当然必要な作業なのですが、前提の確認だったり、主張の確認だったり、論理に漏れがないか確認しながら、ゆっくりと詰めていくので、とことん長くなります。 こんなの、多くの人にとっては、難しいし、時間がかかるし、人によっては「やっぱりわかんないっす」ってなると思うんですよね。 なので、哲学者が人を頑張って長くて難しい話をしながら一人一人説得している間に、口が上手くて扇動の心得がある人が口先八丁で大衆にスピーチするだけで、よっぽど短時間で大量の人心を掌握することができてしまいます。 そうなればしめたもので、哲学者が求めるような「議論を大事にする文化」を、その人気差で圧殺することが容易なんですよね。 他書「ソクラテスの弁明」でも描かれていますが、実際、ソクラテスはそんな感じでソクラテスに反感を抱いた人たちの差し金で、多数決投票で死刑にまでされてしまいます。 しかも、ソクラテスのような哲学者は誠実すぎる性格なのもあって、「悪法も法だ」などと言って本当にそのまま死刑を受け入れてしまったりします。 とすれば、結局のところ、権力者にとっては議論を避けつつ、口先八丁で大衆の人気を取り、悪法の罠にかければ哲学者を排除するのは簡単なわけです。 なんだか、悲しい現実です。 しかし、ほんと、今回ご紹介したソクラテスの話は古代ギリシャの話ではありつつも、なんだか現代にも通ずるものがありますよね。 現代の私たちも、せっかくのその教訓を踏まえて「議論を大事にする文化」を培うように努めるべきなのではないかと、つくづく思わされるのです。 以上です。ご清読ありがとうございました。 #バックアップ/江草令ブログ/2021年/3月