おはようこんにちはこんばんは、江草です。
今日は「怒りの気持ちと付き合うのは難しいなあ」とつくづく感じたというお話を。
ワクチン報道に対して渦巻く怒りの声
ここ最近、「ワクチンの不安を煽る報道」があいついで発見され、医療関係者を始め多数の怒りの声が上がっています。
その勢いたるや凄まじく、一部の記事は削除されましたし、そうでないものも釈明やタイトルの変更に追い込まれました。
実際、いずれも問題がある記事であったと思いますので、江草としても批判するのは当然のことと思っています。
怒りの暴走
しかし、そうした反ワクチン報道批判のムーブメントの中で、怒りのあまりか、問題の記事を出したメディアだけでなく「ワクチンに不安を覚える人」や「ワクチンを受けようとしない人」に対しても怒りの矛先を向ける医療関係者のツイートが目立つようになりました。
さすがに直接攻撃に行く人までは少なかったと思いますが、「ワクチン打たないなら家から出ないで欲しい」とか「まさかワクチンの副作用を心配しながら、タバコを吸ってたり、サプリを飲んだりしてないですよね」など、ワクチンを受けない人を揶揄するような発言が、江草の観測範囲でも、そこそこ多く見られました[1]該当ツイート例はいくつかメモはしていますが、個人叩きをしたいわけではないので、あえて出していません。
もちろん、現状の感染拡大が冷めやらない状況や、分かってる範囲でのワクチンの成績を考慮すると、ワクチン接種を推奨するのが理にはかなってると思います。
しかし、あくまで現時点ではワクチンは希望者制をとっているわけですから、ワクチンを希望しない方を小馬鹿にするような発言は、かえって反感を煽り、反ワクチン感情を誘発するのではないでしょうか。
適切でない報道をしたメディアだけでなく、罪のない方々に対して怒りをぶつけたり嘲笑したりするのは、怒りの暴走と言わざるを得ないと思います。
暴走を止めようと
そんな思いから、暴走を止めようと、いくつかそうした怒りの暴走を諭すようなツイートを江草もいくつかしています。
我々に怒るなら、なぜあいつらにも怒らない?
そんな中、興味深いツイートの議論を見かけました。
発端は、本件に関してはわりと江草と感覚が近い(と勝手に江草が思ってる)、ちゃっきー&だみあんさんの発言からでした。
基本的に「ワクチンを打ちたくない人に対する攻撃的な態度は良くないよね」という問題提起をベースに話が進んでいたところに、ばりすたさんがやってきます。
これだけだとちょっとよくばりすたさんの意図が分かりにくいのですが、次のツイートあたりで趣旨が見えてきます。
つまり、ばりすたさんの言いたかったことは、
”「(医療関係者など)責任ある立場の啓発側が攻撃的な発言をするべきではない」と言うならば「事実に基づかない不適切発言をしている(メディアなどの)責任ある立場の人達」に対しても「そういう発言をするべきではない」と言わないとフェアではないのでは”
ということと思われます。
雑に一言で言ってしまうと「我々に怒るなら、なぜあいつらにも怒らない?」ということと捉えました[2]ほんとに雑ですみません。
我慢ならないから人は怒る
このばりすたさんの一連の発言。あまり考えてなかった視点だったので、江草は衝撃を覚えました。
確かにすごく大事な点を指摘されてると思うんですよね。
実際、江草は「怒りの暴走をしている人たちを諭す発言」ばかりが多くて、不適切報道メディアに対する批判は正直あまりしてませんでした。
メディアが適切だったと思ったわけではなく、もう既に多数の人がメディアに対して十分すぎるあまり怒っていて、江草が今から追加で怒る必要はないなと感じたからです。
それよりも怒りの暴走について指摘している声をほとんど見かけなかったので、これはマズいと思って、怒りの暴走を諭す発言に至った次第なんですよね。
でも、これって要するに、江草が抱いた「不適切メディアに対する怒り」が江草が抱いた「怒りの暴走に対する怒り」より弱かっただけと見ることができますよね。
もっと言えば、「不適切メディアに対する怒り」は大したことなくて、「怒りの暴走に対する怒り」の方がよっぽど我慢ならなかっただけなのかもしれません。
そうなんです。
結局、人は怒りたくて怒ってるわけではなく、ついぞ我慢ならなくなった結果「人は怒る」のです。
”追加で怒る必要はないなと感じた”――この時点で、江草がメディアに対して我慢ならないほど怒りを覚えてなかった、すなわち「大してメディアの行為を問題視してなかった」と言われても仕方がないのです。
怒りを諭す側も実際はひいきしているだけかもしれない
ちょうど、こうした状況に関連する「トーン・ポリシング」という言葉がありまして。
トーン・ポリシング (英語: tone policing) とは、発生論の誤謬に基づいて人身攻撃を行ったり議論を拒否したりする行為である。発言の内容ではなく、それが発せられた口調や論調を非難することによって、発言の妥当性を損なう目的で行われる。
トーン・ポリシング-Wikipedia
発言の内容でなく、発言の口調を問題視して、発言を批判するやり方ですね。
たとえば、「その攻撃的な口調や無礼な態度をまずはなんとかしろ、主張を聞くのはそれからだ」とか、こんな感じでしょうか。
上記の例はわりと本気で敵意をもって使う場合の意味ですので、今回の件と完全に重なるわけではないのですが、確かに「誰かが何かを主張している時の態度」を問題視する時、実際には「その主張内容にもさほど同意できてない」、少なくとも「そこまで熱意を持って賛同はしていない」のではないでしょうか。
そう考えると「攻撃的な態度はよくない」と怒りを諭すモードに入った江草は、実を言うと「不適切メディア」よりも「攻撃的な医療関係者」の方に対してよっぽど怒りを感じていて、ただ「怒りのえこひいき」をしていただけなのかもしれません。
結局のところ「感情的になるな」と理屈で言うのもおかしいのかも
もちろん実際に江草は今でも「怒りの暴走」や「攻撃的な医療関係者の態度」は問題だと思っていますし、それを覆すというわけではありません。
ただ、こうしてばりすたさんが提示してくださった論点から、「単純に自分も怒っていたんだな」と気づかされた経験が、非常に面白いなあと思ったわけです。
怒り方の態度はどうあれ、「何に対して怒るのか」というのは、人による感じ方の違いが如実に出るところなんだなあと痛感したのです。
このように、怒りを諭す側も、結局の所なにがしかの怒りの感情を覚えていることを考えると、結局のところ「感情的になるな」と理屈で言うのもおかしいのかもしれません。
怒るのは怒りたくて怒ってるわけではなく、暴走だって暴走したくて暴走してるのではないのでしょう。
そこに「止まれ」と言われて止まれるぐらいなら、最初から怒ってないし暴走してないのです。
怒りの気持ちや、その暴走を止めるには、理屈で諭すのではなく、その気持ちを一度誰かが気持ちで受け止めることが必要なんだと思います。
気持ちには気持ちですね。
……とはいえ、江草も、喉元過ぎればなんとやらで、ついついやっぱり今後も怒りの気持ちを潜ませつつ、あれこれ言っちゃう活動をしてしまいそうです。
ほんと、怒りの気持ちと付き合うのは難しいです。
以上です。ご清読ありがとうございました。
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