![](https://twitter.com/loquat_priest/status/1726087155779523014?s=20) ![](https://twitter.com/nonowa_keizai/status/1725439706245329279?s=20) ![](https://twitter.com/nonowa_keizai/status/1725880203229213121?s=20) ![](https://twitter.com/0waki/status/1725266379203543284?s=20) ![](https://twitter.com/Rsider/status/1726480137724829923?s=20) ものすごくTwitterでは議論になってるけれども。 焦点としては、仮定を結論に置いた循環論法なのかどうか。ワクチンが個人の感染予防に及ぼす直接効果だけでなく集団免疫としての間接効果を示すことができたのが成果かどうか。という点だろうか。 ののわ氏は結局前提をそのまま延長しただけやんけということで、結局同じことを言っているという批判をされている。 枇杷氏は効果の前提は他所から持ってきているのだから、批判は効果の前提となった元研究の方にするべきで、西浦論文にするべきではないと。 数学的モデルの是非についてはご覧の通り複雑怪奇なので、ここで検証することは難しいけれど、興味深いのは単純に双方の言い分の食い違いである。この食い違いについては「モデルが数学的に複雑である」ということだけわかっていればモデルの内容そのものを知らなくても理解できる。 枇杷氏の言う通り、既知の知見を数学的モデルに入れたらこういう推計になったという論文と解すれば、それは確かに仮定を結論にしているという批判には当たらない。所与の条件を前提とした演繹をしているのであるから、これがダメであれば公理系からさまざまな定理を導く数学は全部ダメであろう。 ただ、この論文を持って、あたかも実証されたかのような報道や取り扱いがなされているのも事実であろう。 [コロナワクチンで死者9割以上減 京都大チームが推計 | 共同通信](https://nordot.app/1097790003285230554?c=39550187727945729) [新型コロナワクチンで死者9割以上減 京都大推計](https://www.sankei.com/article/20231116-3ICUWGMN3FMVZNSKJJGKPB4ARE/) 例えばこの報道でも >どの程度の効果があったのかは十分検証されていない から > 今回の推計では、接種ペースが実際よりも14日間早ければ感染者と死者を半分程度に抑えられ、14日間遅かったら感染者は2倍以上、死者数は約1・5倍になっていたとの結果も出た。 に繋いでしまっているのがミスリードであると思われる。文頭に「推計」と書いているものの、「検証されてない」から次文の「結果も出た」につなげてしまっており、あたかも実証されたかのように誤解を招く表現してしまっている。 さらに言えば教授自身のコメントも「結果的にうまくいったと言える」としてしまっている。 > 西浦教授は「結果的にワクチン接種はうまくいったと言えるが、それで終わりにしてはいけない」と指摘。 ここで無意識のうちに、「結果的にうまくいった」という事実に対する価値的解釈を与えてしまっていることに注意が必要である。あくまで本研究のみに絞ればシミュレーションによる推計なのに「効果が実証された」かのように自身が語ってしまったのである。(報道ライターが勝手に誤解を招くコメントに改変した恐れはあるが本報道を西浦教授自身がツイートで広報しているので内容については本人の承認済みと考えていいだろう) この研究が帰納的推論ではなくあくまで演繹的推論であるという本質を捨ててしまったのは擁護者の方であろうという点にののわ氏は憤っているように思われる。そのことを枇杷氏はののわ氏が勘違いしているかのように批判しているようだが、それはののわ氏から言わせるとそれはわかってるんだが、世間がそう受け取ってないだろうという違和感に映っているのだろうと推測される。 つまり、 ののわ氏は西浦論文が演繹的推論(理論科学)であるのは承知。世間が帰納的実証(経験科学)として受け取ってることを批判している。 枇杷氏は西浦論文が演繹的推論(理論科学)であるのは承知。ののわ氏が帰納的実証であるかのように批判していることを批判している。 おそらく、ここで食い違っている。 極端に言えば、 「経験的実証成果から、みかんはスーパーで1個200円の価格で売り出されていると前提する。現実として、たかし君がみかんを5個買ったら1000円財布からお金が減りました。ここで四則演算という数学モデルを構築したところこの現象をよく説明できた。では、もしたかし君がみかんを10個買ったとしたならどうなったかを推計したら、2000円減ったという結果が出た」 という推論を見たときに、これがどれぐらいの意味を持った説明と言えるかという捉え方の問題となってくる。この研究の成果は何にあると言えるのかと。 演繹的推論としては間違ったことは述べていない。だから、推論プロセスとしては妥当である。 しかし、この結果を見て「みかん1個200円なんてさすがみかんの価格は高いな」と述べたなら、それはこの研究の成果ではなく前提について語ってしまっている。そこはこの研究で導かれたものではないからだ。しかし、その前提をも含めて「ワクチンの成果は偉大であったな」と称賛してる世間的空気は否めない。 というより、感染死亡者減という人間直感的に分かりやすい数字を出すことで逆にワクチンの効果の確信性を増すという仕事を(図らずも)してしまっているのが本研究のややこしいところなのである。これだけ大きな死亡者数減が得られたっぽいよという言説を聞いて「ワクチンはすごいんだな」と誤謬の推論を働かせないのは難しい。いかに妥当な科学研究と論理的推論であったとしても、その結果を受け取る人々に刷り込まれるイメージが科学的に妥当であるとは限らないというのがややこしいのだ。 だからこそ、この事実上の研究の前提に対する逆向きの納得と称賛の声に対し、結局は「みかん1個200円と仮定すればみかん1個200円だった。循環論法だ」と、研究成果の意義や新規性そのものを否定したくなる気持ちはわかる。 もちろん、たかし君の買い物の例えは極めてシンプル化していることには注意が必要だ。この研究が「直接効果」だけでなく「間接効果」まで推計しようとしているという複雑性までは表現できていない。しかし、「間接効果」についても既存の実証データとモデル構築で表されてるはずであり、実質的には同じとも言える。たかし君の買い物で言えば、たかし君の買い物が物価上昇圧や国家の経済効果にどのような作用を及ぼすかを他の研究や理論モデルで説明する作業が加わったに過ぎない。 ![](https://twitter.com/loquat_priest/status/1726811152171274553?s=20) さてそうすると、この「科学論文とは検証可能性を担保する形態である」という主張も、誠に通常科学的に妥当であり真っ当な立場ではあるものの、結局はそうした科学論文の成果が報道、SNS等々によって誤解を交えながら伝言ゲーム化して風説状に伝播していくという問題には応えられていないとも言える。 確かに核となる科学論文は検証可能性を担保する形態であったとしても、報道やSNSで検証不可能なまでにその研究成果の文脈が毀損されて流布する。なんなら、大学の広報やオーサー自身が積極的に結論部分のみを触れ回ったりする。ならば科学論文の部分だけ検証可能性を担保することにどれぐらいの意義があるのだろうかという問題が出てくる。 arxivのようにプレプリントのプラットフォームも隆盛となっていることを考えれば、必ずしも科学論文原本の査読の検証可能性にこだわる必要はないかもしれない。特に、今回の西浦論文は理論数理的な性格が強いので、無査読に親和性は高い。今回の件をもって、科学論文の検証可能性や査読の強みの話に持ってくのはあんまり筋がいいとは思われない。 以前から査読システムについては見直しの議論が常に言われているのだし「検証可能性があるから科学論文はすごい」はもはや実情から乖離した少々素朴すぎる立場かとは思われる。 [Amazon | Do We Still Need Peer Review?: An Argument for Change | Gould, Thomas H. P. | Library Management](https://amzn.asia/d/deu9KyL) あるいは科学哲学的に言えば、反証可能性(枇杷氏の「検証可能性」は意図を鑑みるとこう呼ぶ方がより正確だろう)もどこまで頑健かという問題提起は常になされている。 デュエムクワインテーゼ、ラカトシュのリサーチプログラム論など、結局は反証可能性と言ったっていくらでも言い逃れができるし、最終的には独断的前提を要するだろうと。 ここには、どの言説までが科学的知見なのか、検証可能性(反証可能性)とはそんなに明確に保証できるものなのか、という科学哲学的な沼がある話なので、なかなか奥深い。