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経済がからんだ議論を見ていると、「お金とはどういうものか」のイメージの違いによって意見が分かれてる側面が強いように感じてます。
たとえば、「給付金を配布するべきか否か」という議論では、「その分、税金を上げなきゃいけないじゃないか」という意見と「いや税金に頼らずともインフレにならない限り政府はお金を拠出できる」という意見がよく衝突しています。
こうした意見の対立の背景には、「お金のイメージ」の違いがあるように思うんですよね。
それは「重みを感じる貯金箱」か、「データでしかないゲーム内通貨」かというイメージの違いです。
まず、「重みを感じる貯金箱」というのは、あの一枚入れる度にチャリンと音がして、その分重みが増して、普段から目に入るところにおいてある、ああいう貯金箱のイメージです。
現物としてまさにそこに在り、勝手に増えたり減ったりはしないもの、という確固たる実物的存在のイメージです。
他方、「データでしかないゲーム内通貨」というのは、その名の通り、ゲームの中の通貨のように触ることも、触れ合う音が聞こえることもない、あくまで架空の存在です。
ゲームをする人には親しみがある通貨だと思うんですが、かの有名な「ゴールド」とか「ギル」とかって、どんな形の貨幣か実は知らないですよね。みんな硬貨で持ってるのか、紙幣で持ってるのかもわかりません。
でも、どんなものかは知らなくても、プレイヤーはその「ゲーム内通貨」を普通にお金として使ってアイテムを買うし、「ゲーム内通貨」を求めてモンスターを倒して通貨を稼ぎます。
モンスターは無限に湧き出て、しかもなぜか倒すと通貨を落とすので、つまるところ、そのゲーム世界内では通貨が無限に生じうることになります。
この両者のお金のイメージの違い、すなわち、お金は「現実の有限な存在」なのか、もしくは「架空の無限の存在」なのか、が人の経済政策への反応の違いの一因かなと江草は思うのです。
たとえば、お金を「現実の有限な存在」と考えていれば、誰かに給付をすれば、どこかから奪い取ってこないといけません。
だから、「給付をする」と聞けば「どこから奪い取るのか」と懸念を示すわけです。
一方で、お金を「架空の無限の存在」と思っていれば、「財源はどうするのか」と尋ねられても「刷ればいいじゃない」とあっけらかんと答えることになります。
つまり、「給付をする」と聞いても「データ上、市場に存在するお金が増えるだけ」という感覚なわけです。
このように両者のお金のイメージが対照的すぎることが、「お互いにお互いの言ってる意味がわからない」と不毛な議論につながってるのではないでしょうか。
余談ですが、現在、キャッシュレス決済がだいぶ進んできたと言っても、現金支払を続けてる人も少なくありません。
もしかすると、こうした現金派、キャッシュレス派の違いも「お金に対するイメージ」の違いを反映しているのかもしれませんね。
さて、以上は、あくまでどっちが正しい間違ってるという話ではなく、イメージの違いはこういうところから来てるんじゃないかなという話です。
ただ、一応は現時点での個人的な印象を軽く述べておくと、多分どっちも極端すぎるんじゃないかなと。
つまり、ある意味どちらも間違っているというのが江草の意見になります。
まず、お金が増えたり減ったりしない有限なものというイメージは間違いでしょう。
流行りのMMTに頼らずとも、「信用創造」と呼ばれる仕組みで市場のお金が増えることは古くから知られています。
少なくとも、実物の担保がある金本位制でなくなった時点で、「現実の有限な存在」として在るという「お金」ではなくなったとは言えるでしょう。
一方で、お金が無限に増やせるというのもやっぱり極論でしょう。
たとえば、「ゲーム内通貨」だって理論上は無限に増やせるとは言っても、あくまでモンスターを倒す現実の労力や時間と引き換えにようやく少しずつ集められるものです。
すなわち、どれぐらいの量の通貨を集められるかは、労力や時間をモンスター退治にどれほど費やせられるかにかかっていると言えます。
ゲームソフト自体をハックしない限り、「ゲーム内通貨」もあくまで勝手に自由に増やせるという意味での無限ではないわけです。
現実の経済も本当に野放図にお金が増えたら、人間の感覚や認識能力を越えてしまい、世の中が大混乱することは必至です。
つまり、「理論上の無限」も、どこかで人間に合わせないといけない以上、現実の実践上は成り立たず、やはり一定の現実的な規定条件の束縛を受けざるをえないわけです。
もっとも、誤解されがちですがMMTもそもそも「無限にお金が増やせる」という理論ではありません。
あくまで「過度のインフレに陥らない限り」と「インフレ率」という規定条件をおいています。
ただ、ネット上レベルでの議論の際には、ときにMMT支持者もヒートアップしてあたかもいくらでも供給できるかのような雰囲気で主張してしまってることもあるように感じてます。
ですので、現状、政策として「お金が必要」となった場合も、そうした規定条件を考えなければならない以上、やっぱり「現実としてどれぐらい供給可能か」という議論は避けられないものだと思います。
多分、つまるところ、「お金」というのは「重みを感じる貯金箱」でも「データでしかないゲーム内通貨」でもなく、その「中間」と考えるのが適切なのでしょう。
ただ、困ったことにこの「中間」というのはなんともイメージがしがたいのです。
江草もしばらく考えてみたんですが、やっぱりつかみどころがありません。
このイメージのしにくさが、どうにも落ち着かなさを発生させて、ついつい人は両極どちらかのイメージに吸引されてしまう。
そういうことなんじゃないかなと最近感じてます。
お金というのは人々の「共同幻想」で成り立ってるとも言われています。
となると、「幻想」を人々がしっかりと共有できないと、お金の問題は揉め続けるのではないでしょうか。
ですから、この「中間」としての「お金のイメージ」を、みんなが共有できる分かりやすいイメージとしてうまく確立できれば、経済政策の議論もスッといくのかもしれませんね。
どなたか良い案あれば考えてみて下さい。
以上です。ご清読ありがとうございました。
#バックアップ/江草令ブログ/2021年/7月